闇の中、私の身体はその中をフワフワと漂っていた。
何にも頼らずただそこに浮いているだけ。大気すら感じることの出来ないこの無限のような空間の中、私は瞼を開くこともせずにその浮遊している不思議な感覚に身を任せていた。
夢を見ているのだろうか…?私は瞳を閉じたままそんなことを思う。あまりにも現実とは思えない浮遊しているこの感覚は、まるで私自体が幽体になってしまったかのようだ。普通なら永遠亭の皆を残して死んでしまったのでは無いかと錯覚し、ホンの少しの不安くらいあってもいいと思うのに、その時の私はしがらみだらけの自分の体が、今は他のなににも阻まれること無く浮遊していると言う、僅かな心地よさすら感じるこの今の感覚に身を委ねていた。
いっそ、この感覚がもう少し長く続いたら…。私は身体がさらに闇の中を漂い続けていても、私は浮遊する僅かな心地よさをもっと味わっていたくて、その身を漂わせ続ける。
例え今私のいるここが心地よい闇であっても、それが夢ならいつかは終わる。意識は朦朧としていて、頭の中は虚ろだったけれど、それだけは何となく分かっていた。
そう、これは夢。いつかは目覚める時が来る。
それならその夢が終わるまでその感覚に身を委ねていたい。私以外、何もかも存在しないこの闇で。
でも、終わりは唐突だった。
何処か遠くから流れて来た香ばしい香り。それは私が毎朝起きると薬品の臭いが充満している私の研究室の中や、寝室にまで漂って来た香りだった。
 
いい香り…。
 
永遠の時の中で、毎朝嗅いでいたのだ。忘れる訳が無い。
相変わらず場所を選ばない香りだと思う。でもそのおかげで、私の意識はだんだんと定かになって来て、浮遊している感覚もやがてはその感覚を失って行き私の体はどんどん下へと降りていった。
―――夢が終わる。
私がそう思った途端、今まで味わっていた心地よさが急速に失われて行き、そして最後に私は、何かに強烈に叩きつけられるような衝撃を味わった。
 
 
 
「……」
瞼を開ける。そこはもう暗闇でも無ければ、心地よい夢の中でも無かった。
私を起こした原因である香りが、室内には満ちている。台所のある方向からは、何かに火を通す音が、竹林を飛び交う小鳥達の囀る声と共に私の耳に届いて来た。
私はそれを聞いて、朝が来たのだと実感する。
簡素な白い生地で統一されたベッド。そこから辺りを見渡せば、カーテンを閉め切ったせいか薄暗い室内には所狭しと、無数の実験器具が並べられていた。
昨晩はずっと製薬作業をしていて、厭気が差すほど見ていた器具達だったから、寝起きからそんな物ばかり目に入るのは、何だか少し嫌だった。だから私は狭い簡素なベッドの上で軽く寝返りを打って、視界からその器具達を掻き消す。
もう一睡したい。けれど、昨夜から入浴していない上に普段着の上に実験用白衣を羽織ったままのこの不潔な体は、何故か不自然なまでの量の寝汗をかいていて、そのせいで私の肌には服が密着していた。こんな感じでは寝ることすらままならない。
 「少なくとも気持ち良くは感じないわね…」
重たい身体を起して、呟く。
台所から流れて来る火を通す音が、いよいよ大きくなって来た。恐らくもう少しで完成なのだろう。完成したら多分、優曇華が起こしに来るに違いない。
私は自分の身なりを見る。
どうしようも無いほど乱れた髪、そして汗だらけの身体。正直優曇華の師匠をしている人間としては、あまり愛弟子には見せたくない格好だ。それにあの娘は姫やてゐ、その他の兎達よりも遥かにしっかりとしているから尚更だった。多分何かと製薬や仕事に、のめり込む私を一番支えてくれている存在かも知れない。
私は意を決しベッドから降りると、ゆっくりと薄暗い部屋を一歩一歩確かめるような足取りで、シャワー室に向かって歩き始めた。
便利な物で、この研究室にはベッドと小さいがシャワー室が備え付けられてしる。私は研究や製薬に一度のめり込むと、姫以上に引き籠ってしまうことがある。だからその為のベッドとシャワー室だった。ちなみに、どちらも結構な頻度で利用している。
シャワー室の引き戸の前で私は立ち止まった。スペースの問題と言う止むを得ない事情のせいで脱衣所などは流石に無いので、服はここで脱ぐしかない。
私はゆっくりと指先で白衣を脱いで、ハンガーに皺が付かないように掛けると、今度は少しさっきよりも早いペースで身に纏っている服や履いている靴下を脱ぎ、こっちは白衣と違って適当にベッドの上に全て纏めて脱ぎ捨てた。
今はもう下着だけ。
上は黒のブラに下は黒いガーター。そう言えば私のこんな下着姿を見た優曇華は顔を真っ赤にしていたっけ。
私は自分の太股から腰に掛けてぴったり装着されているそれを見ながら、その時の優曇華の慌てぶりを思い浮かべた。
 「優曇華はいじるとさらに可愛いのよねえ…」
はあ…と溜息混じりに言う。
真面目なあの娘は、出来心からか、私がからかうと見事なまでに顔を赤くして必ずと言っていいほど、毎回リアクションを見せてくれる。その可愛さは姫の保証付きだ。
 「今度、と言うか今日中にやってみようかしら」
事故を装って、そしてさらにセクシーな下着を付けて。
ああ、それを考えただけで顔がニヤけてしまいそうだ。
 
 
 
 
「〜〜♪」
私は鼻歌交じりに、フライパンの上の目玉焼きを丁寧にお皿に載せた。
 「うん、上出来かな」
私は満足げに、綺麗に形が整えられた目玉焼きを見ながら言った。
所詮目玉焼きだが、それでいても今回の目玉焼きはなかなか良い形で、焼き具合もよかった。黄身も綺麗に膜が張っていて、中はきっとよい半熟具合だろう。
 「頂くぞ〜鈴仙〜」
私が満足げな笑みを浮かべていると、隙ありとばかりにてゐが私の横から現れ手を伸ばし、目玉焼きの盛られた皿の一つを手に取る。
 「あ、こらっ!!!」
私が奪い返そうと手を伸ばしたら、案の定ひらりとかわされ、華麗なステップであっと言う間に距離を取られた。そして距離を取るとてゐは勝ち誇った笑みを顔に浮かべる。
 「へっへ〜。いいじゃん鈴仙、もう一つ作れば」
そう言ってからてゐは、挑発するように耳をぴょこぴょこと動かした。
私はそれを見て、どうすればこの悪戯ウサギから目玉焼きを取り返せるか考える。朝から、ましてや台所で弾幕を放つ訳にもいかないし、取っ組み合いなどもっての他だ。確かに懲らしめることは出来るだろうけれど、もしそれを師匠に見られたら…。どんな仕打ちを受けるか考えるだけで恐ろしい。
 「ダメよてゐ。いい加減返しなさい」
取り合えず冷静な声で、無駄だとは分かり切ってはいるが平和的に解決を試みる。
 「嫌だね。なんなら取り返してみれば〜?」
朝から兎の神経を逆撫でするような声で、てゐは言った。多分私を怒らせたいのだろう。しかしそれに乗せられてはてゐの思う壺だ。私はそのニヤニヤした顔を見ながら溜息をついて
 「朝食が遅れるからいい加減にして」
と、言う。全く…毎度朝から手が掛かる。私がいつも皆よりも早く起きて朝食を作っても、こうして邪魔が入って毎度朝食が遅くなるのだか堪った物では無い。
ここはいい加減懲らしめるべきかも知れない。
私の様子から悟ったのだろう、てゐはやったとばかりに顔を輝かせた。甘いわね、てゐ。私も何回も同じことを繰り返すほど愚かな兎では無いわ。
 「食べちゃうぞ〜」
てゐが私の考えていることを知らずに、さらに私を怒らせようとそう言いながら目玉焼きに手を掛ける。
 「別に構わないわよ?」
私は、至極落ち着いた声で言った。これが私の反撃だった。
すると余程私の言葉が予想外だったらしい。てゐは「え…?」と言って顔を驚愕の色に染めて、目を丸くしながら私を見る。
 「だから、食べていいわよ?」
私はニコリと微笑みを顔の湛えながら、てゐに言った。
 「え、でも…いいのか…?」
明らかにてゐは、私の言葉に困惑していた。これはイケる、私はその様子を見て確信した。
 「いいわよ。どうぞ」
さらに追い打ちを掛けように私はさあ、と言って促す。するとてゐは、チラチラと私を確認しながら目玉焼きを凝視し始めた。
そしてかなり悩んだ末
 「あ、ありがと…」
と言って、崩れないように目玉焼きを両手で丁寧に掴もうとした。よし、完璧に思う通りに動いてくれている。私は思い通りの行動を取ったてゐを見て勝利を確信した。
そして最後のトドメを刺すために私はてゐを見つめる。
 「正し、貴女の分はそれ限りだから」
ニコッと笑って、私は冷たくてゐに告げた。
 「な、それは無いだろっ!!」
慌てててゐが、掴もうとしていた手を引っ込めて言った。
 「あら?だって目玉焼きは一人一つだけど?」
相変わらず、自分でも違和感を感じるくらいの冷たい笑みのまま私は言う。
てゐはそれを見て遂に本格的に焦りを見せ始めた。明らかに自分はどうするべきか分からなくなっている様子だ。
 「あら?早く食べないと冷めるわよ?まあ、貴女のせいで四つとも全て冷めているけれど」
そんなてゐに、私は釘を刺すように言い放った。少し残酷な方法だった。その上ここまでやっておきながら、やり過ぎだなと言う感も否めない。ただ、てゐにはいい加減にお灸を据えなければならないのだ。今回の悪戯はまだ可愛い方だった。この子の悪戯は、最近度が過ぎている。特に私には四時間に一回と言う過去に類を見ないほどのペースだ。つい先月までは一日に一回あれば多かった程で、そこまでしつこくは無かった。正直、私は参っていた。もう、残酷ではあっても手段は選べない。この子の為にも、そして私の為にも。やられっぱなしの自分にはいい加減、嫌気が指していた。
 「……」
てゐがついに俯いた。それを見て言いすぎたかな…。と心の中で毒づいた。顔を上げた時、てゐは何と言うのだろう?その弱弱しい姿を見て私は内心本気で傷付いていなければいいのだけれど、と自分でして置きながら思う。自分で考えた末にお灸を据えたつもりだったけど…。加減って難しいな…。
 
 
「―――ごめんなさい」
 「―――えっ?」
唐突に吐き出された、それは予想だにしなかったてゐの謝罪だった。私はその突然のてゐの言葉に混乱し、言葉が続かなかった。なんせあのてゐが、自分から謝ったのだ。
でも、それだけならまだいい。何より一番予測していないことが起こってしまったのだ。それは最悪の形で。
 「グスッ…」
そう、てゐが泣いてしまったのだ。しかもその上、てゐは震える両手でゆっくりと両目を覆って、僅かに空いた指の隙間からポロポロと涙を流しながらその場にへたり込んでしまった。
 「あ、てゐ…」
私は自分がしてしまったことを実感して、一瞬で氷付いた。
耳をペタリと垂らし、私の前で声を噛み殺しプルプルと肩を小刻みに震えさせながら泣いているてゐ。嘘泣きにはとても見えない。私はまさかここまで、てゐを追い詰めてしまうとは予測せずそんなてゐの姿を唖然とした様子で見下ろしていた。
そして、てゐからついに我慢出来ないとばかりに、嗚咽が小さく洩れる。
その嗚咽を聞いた途端に、私の両肩に罪悪感の重みがズッシリと圧し掛かった気がした。
 「ごめん、ごめんね…。てゐ…」
私もその罪悪感の重みに耐えられず、床に座り込むと優しくてゐを抱き締める。すると、てゐはすっぽりと何の抵抗も無く私の腕の中に収まった。そのお陰で私はいくらか気が楽になる。てゐは相変わらず泣いてはいたけれど。
しばらく泣いているてゐを、私は抱きしめていた時だった。不意に、てゐが自分から私の腕の中から離れた。私は今だ、一縷の不安を抱きながらも、てゐの背中に廻していた腕を放す。
 「ごめんなさい…」
私は眼を伏せながら言う。
 「……」
てゐは答えない。それでも私は続ける。
 「でも、どうしても貴女に悪戯されて欲しく無かったの…だから」
 「鈴仙…」
私の言葉を遮るように、てゐは言った。
 「何…?」
私は、顔を上げててゐを見る。てゐの言葉を聞く為に。
「バ―――カ!!!!!」
てゐが大声で私の目の前で叫ぶ。その勢いに気圧される私。そしてその隙にあろうことかてゐは、彼女の発言に呆然としている私の横にあった、自分の分の目玉焼きを奪ってから立ち上がり、さらに調理台の上にあったもう一つ皿に盛り付けられた目玉焼きを取った。
 「なッ…!!何をしてるのよてゐ!!」
我に帰った私は、目を丸くしてかなり混乱したまま、戸惑いを含んだ口調で言う。しかし、最早てゐにはそんな呼びかけなど聞こえなかったようだ。
 「煩いこの馬鹿鈴仙!!ドM!!変態!!」
散々てゐは、私を罵ると裏口の引き戸を開ける。私は慌ててその手を掴もうとしたが、これもヒラリと手を反らしただけで回避され、裏口の外へと逃げられた。
 「返しなさい、と言うか逃げるな!!」
私は裏口に立ちながら言う。しかしてゐは器用に二つの皿を手を腕を使って、片手だけで持つと舌を出してアッカンべーを私に対して向けてから、脱兎の如く遁走した。
 「……」
そのてゐの行動に、もう訳が分からなくなって、無言で呆然と立ち尽くす私。
そしてこんな時に限って居間でゴロゴロしていた姫様が、なんだかんだ一部始終を聞いていたのか、心配そうに襖を開けて台所の中に入って来た。そして私を見ながら
 「…えっと、言いたいことは沢山あるけど…大丈夫?貴方も朝食も…」
そう言う姫様は、まるで壊れ物を扱うかのような態度で私に問いかけた。
肝心の私はと言うと、姫様にそこまで心配されて何だか泣きそうになっていた。
 
 
 
 
 
「ふう…」
結局優曇華は来なかったから、私はゆっくり時間を掛けて体の隅々まで丹念に洗ってしまった。
私はタオルを体に巻きながら、シャワー室から上がる。すると意外な事に、まだ何かに火を通す音が台所からしていた。失敗したのだろうか?いや、優曇華に限ってそんなことは…。何か事故があったとしか思えない。
どうしても気になり、私はカーテンの間から台所を観察してみる。すると開けっ放しのままの裏口が目に止まった。
 「何で裏口が開けっ放しなの…?」
私は眉をしかめながらふと思ったことを口にする。台所で何かあったのだろうか…?
私が相変わらず監視を続けていると、不意に扉がノックされた。私は扉の方に目をやった。今はタオルで裸は隠してあるし、それに今の時間帯だったら私の研究室を訪れるのは『見られても大丈夫』な人物しか永遠亭に居ないはずだ。もしそれ以外だったら…。その時はこちらから排除に出向く負担が減っただけだろう。
 「どうぞ」
私が扉の向こうの相手に言うと、即座に扉が開いてその人物が入って来た。
 「ちょっと永琳、相談があるんだけど」
入って来たのは姫だった。ここを自分から尋ねるのだからてっきり優曇華かと思った。まあ、彼女もその『見られても大丈夫』な人物なことに変わりないが。
 「どうしたの?さしずめその様子だと、何かあったのね?」
私は、窓から目を離して姫を見た。姫はすでに研究室備え付けの簡易ベッドに腰掛けていた。そして、そこに脱ぎ散らかされた私の服を掴んで、隅に追いやりながら狭いベッドの上で体育座りをして私を見る。
 「ええ。どうやら、鈴仙とてゐが大きく揉めたらしいわ」
私はその言葉に大きく溜息をついて頭を抱える。 
 「またかって言いたそうね、でも今回ばかりは本当に大きな問題になりそうよ」
姫は私の様子を見ながら、至って真面目な顔で言う。私は頭から手を離し
 「でも、原因はてゐの悪戯でしょう?」
と言って、作業の時いつも座っている椅子を引き寄せ、それに座りながら聞いた。
 「ええ、でも少し鈴仙もやり過ぎたみたいでね…。てゐを泣かせちゃったらしいのよ…」
バツが悪そうに言う。きっと姫も自分がすぐその場に居ながら何も出来なかったことを悔やんでいるのだろう。まあ、無理も無い。私だってそんな最中に呑気にシャワーを浴びていたのだから、同じようにバツが悪いに決まってる。
 「参ったわね…」
私は腕と足を組みながら言う。私の言葉に黙って頷く姫。
 「あの娘もいろいろ溜まっていたのかもね…」
私はそう言ってから溜息を吐き、自分の髪を弄る。その様子を見ながら姫は口を開く。
 「責任感が強すぎるのよ、鈴仙は。特にここに来てからね…」
そう言う姫は大切な家族の悲鳴にかなり心を痛めているようだった。でも、それ以上に、私の方は何をしていたのだろう…。大切な弟子がいつの間にかプレッシャーとストレスを同時に溜め込んでいて、それに今まで気が付くこと無く、ただ可愛がることしか私はしなかった。確かに、それで幾分か鈴仙の負担は軽減していたと言う自負はある。だけど、本当に鈴仙を思うなら。もっと可愛がる以前に何か違うこともしてあげればよかった。
幸い、こう言う形で歪みが表れて良かった。もしさらに鈴仙が溜め込んでしまっていたら…。
 「だからこそ、今しっかり支えなきゃならないわ」
私は立ち上がって言う。
 「ええ。まず服を着てからだけど」
頷きまがら、姫は言う。私は置いて合った綺麗に畳んである服を取る。そう、これも優曇華が丁寧に畳んで置いてくれた服だ。
 「ええ、じゃあいいかしら?」
私はその服を両手に大切に抱えながら、姫に退室を促す。
 「分かったわ。じゃあ、鈴仙を、よろしくね」
ベッドから降りて、扉に向かい姫は退室間際にそう付け加えた。
 「当たり前よ。…私の弟子よ?」
私は真顔でそう言う。姫は「だからこそよ」と私の言葉に応えてから、扉の向こうへと消えた。
私は、それを見るや否や電光石化の勢いで着替え始めた。てゐのことも気になって仕方無かったが、今の私は一刻も早く優曇華のところへと向かいたかった。優曇華を支えられるのは、この私。丁寧に畳まれた服の上下を着ながらそう決意を新たにするのだった。
 
 
居間の中に入ると案の定、そこには私に背を向けたエプロン姿の優曇華が一人、食卓の上に作り終えられた朝食のメニューを配膳していた。
 「優曇華…」
私は、最初は努めて明るく振舞う積もりだったのに、声は自分の意思に反して朝だと言うのに、重々しさを帯びた響きになってしまった。
 「あ、師匠。おはようございます」
私の声が背後からしたので、気が付いたのだろう。私の方へと振り返ると、笑顔で言った。
 「突然で悪いけど、朝何かあったの?」
優曇華には悪いが、私はその笑顔に対して答えることなく、心配そうに顔を曇らせながら聞いた。本来ならそう言う騒動の後でも、鈴仙が笑顔を私に向けてくれるのならば、私は当たり前のようにそれに答えていたのに。だけど、その時の鈴仙には、本当は私に対して笑顔を向けることが出来るような余裕があるようには見えなかった。
 「えっ…。いいえ」
優曇華の笑顔がその言葉を聞いた途端に一瞬で曇り、一人分減った三人分の朝食を運んでいたお盆を、握り絞めながら、鈴仙は私の言葉を否定する。
 「そうは見えないわよ。…優曇華」
もう、姫から聞いて私は大体の顛末を分かっていた。それに優曇華が私に隠し通せる訳が無い。
 「何でも無いです…。本当です」
耳を垂らしながら優曇華は言った。多分、自分がてゐを傷付けてしまったのだから、これ以上私に迷惑を掛けたく無いのだろう。その強張った優曇華の体は彼女の、自分に無理を強いってしまう弱さと脆さを露呈していた。
 「何も無いようには見えないわ。優曇華、私は貴女の師匠なのよ…?」
私は、子供をあやすような口調で、優しく優曇華の肩に手を掛けながら言った。
 「……」
意地を張った子供のように、黙り込む優曇華。
 「正直言うとね、優曇華。私は全て知っているわ、貴方を心配した姫様から全て聞いてね…」
 「姫様が…?」
優曇華がそう言って、か細い声で聞いた。
 「そうよ…。貴方を心配しているのは私だけじゃないのよ…」
私は、優曇華の瞳を覗き込みながら言った。思いが伝わるようにと、そう強く心の中で思いその思いを視線に宿しながら。
 「でも…今回のことは私が悪いですから…」
優曇華は、私を泣きそうな表情で見返しながら言う。その表情に私は一瞬だけ食い下がりそうになった。だけど、私はなんとか優曇華から視線を逸らさずに続ける。
 「それは、貴方がてゐを思ってしたことでしょう?私には貴女が嫌味で言ったとは到底思えないの」
意識をしなければ、優曇華の肩を掴む手に勝手に力が籠ってしまいそうだった。
 「でも…私、てゐをなじるような行為を楽しんでいたんですよ…?なのに…」
優曇華が口を開いて、言葉を紡ぎ出すとそれと同時に我慢できないとばかりに、涙が瞳の奥から溢れ始め瞳から溢れ、頬を伝って落ちた。
 「私、ムキになっていたんです…仕返しがしたくて…心配なんかそんなこと…」
私の掴んでいた優曇華の両肩が、震えていたのが分かった。瞳から溢れる涙を拭うように、手で目を覆う。その様子を見た私には優曇華の抱く罪悪感と、葛藤が痛いほどに伝わって来た。
 「でも、それは貴女がもうどうしようもなくて、してしまった行為でしょう…。大丈夫よ、私は全て知っていると言ったじゃない」
優曇華を優しく抱き寄せ、その背中を擦る。昔から優曇華が辛い時に、良くこの方法で優曇華をあやしていたっけ。不謹慎だけど、その時の私は自分から勝手に抱きしめておきながらそんな懐かしさと一緒に、優曇華に対して愛おしさも感じていた。
優曇華は、私の包容を拒まなかった。ただひたすら私の胸の中で、声をあげて泣いていた。彼女も、やはり私と同じように安息を求めていたのだ。私はそんな優曇華の背中を擦りながら、そう痛感したのだった。
 
 「…ありがとうございます」
優曇華も大分落ち着いたので、私が解放した時不意にそう言われた。
 「気にしなくていいわよ。…私だってもっと早く、優曇華の悩みに気が付いてあげればよかった…」
私が静かに後悔した口調で言い返した。
 「そんな、師匠は悪くないのに…」
肩を落としながら優曇華は私の様子を見ながら言った。
 「いいえ…師匠失格ね」
 「なっ…!そんなことは無いですよ!!」
優曇華は私がふと呟いた言葉に、慌てて詰め寄った。その様子があまりに必死な物だったから、私は不覚にも少し驚いてしまった。
そして、優曇華はすぐに我に帰り顔を真っ赤にして俯いた。
 「すいません…」
小さく洩らすように言う優曇華。だけど、私はそんな優曇華に笑いかけて言う。
 「あら、嬉しかったわよ?」
実際、私は嬉しかった。その証拠に優曇華のその言葉がいまだに脳内で反響していた。そして私の顔は嬉しさのおかげで、頬が緩み多忙な生活と過労の中で擦り切れ忘れていた自然な微笑みを久々に顔に浮かべていた。そして私の中はすっかり優曇華の咄嗟に言った言葉のおかげであっと言う間に満されていた。
 「そう、ですか…?」
優曇華が顔を上げて私を見る。私は笑顔のまま頷き
 「優曇華が私を大切に思っているんだなって。私は良い弟子を持ったわ」
と、優曇華の頭を撫でながら言った。
再び、元に戻りかけた顔を羞恥から真っ赤に染める優曇華。その様子は本当に可愛らしかった。
 「うう…恥ずかしいですよ…」
優曇華は私を恥ずかしそうに見ながら言った。
 「恥ずかしいのは私も同じよ。優曇華は嬉しくないの?」
私は優曇華を見ながら聞く。すると優曇華は「そ、それは…」と言いながらお盆を握り締めた。
そしてしばらく時間が経った時
 「嬉しい、です…」
と言って私を見た。その顔は、自然と笑みに彩られていて、やっといつもの優曇華に戻ったことを表していた。私はそんな大切な弟子の笑みが自分に向けられていることが嬉しくて
 「ありがとう」
そう言って、優曇華を抱き締めた。今度はその大切な存在を噛み締めるように、強く、それでいて気持ちが伝わるようにと。
 「えへへ…これからも、よろしくお願いします」
優曇華は照れ笑いをしながら、同じように私を強く抱き締めた。
そうやって二人で、一緒に抱き合っていた時だった。私のお腹が音を立てて鳴った。
 「お腹、空きましたよね…」
苦笑いしながら、私に抱きしめられたまま言う優曇華。
 「ええ、すっかり…」
私も若干の恥ずかしさを覚えながら苦笑いを顔に浮かべながら言う。
 「じゃあ、朝食に…」 
「ええ。悪いけど姫様を呼んで来て貰える?」
私が言うと、優曇華はすぐに頷いたが私の腕が尚もその華奢な身体を離そうとしなかった。同じように私も離れようとするが、優曇華は離してくれない。
お互いが自然と離れ無くなっている。
そんなあまりに可笑しい二人の状態に、私と優曇華はお互い肌のすぐ前で声を挙げて笑った。笑う度に、お互いの肌にかかる吐息がくすぐったい。
すぐ近くに優曇華がいる。すぐ近くに私がいられる。それに加え、そんな感覚のお陰でさらにじれったさを感じているのに、私達は離れることは無かった。
 
 
「この馬鹿従者…。朝からなにをしてんのよ」
呆れた様子で、襖を開けて姫が中に入って来たのは、そのすぐ後だった。
無論、我に帰った私と優曇華はすぐにお互い離れて、頭を下げてご機嫌斜めな姫に謝る。幸い、姫はそこまでお怒りではなかったみたいで、私達が羞恥と反省心から猛烈な勢いで謝っているのを見てすぐに許してくれた。
 
 
 
 「御馳走様」
朝食を食べ終えて、私はハンカチで口元を拭う。
 「永琳食べるペースが遅い〜」
私よりもずっと先に食べ終えて、空になった自分の食器を重ね終えていた姫は、私を見ながら気だるそうに頬杖を付いて言った。
 「あら、そうですか?」
私も姫と同じように、自分の使っていた食器を重ねながら聞き返す。私は自分の食事のペースが遅いのではなくて、どちらかと言うと姫の食べるペースが速すぎるのだと思うのだけれど。
 「いつもあんなに忙しいじゃない。それとも食事はゆっくり取りたいの?」
姫は相変わらずの気だるそうな様子もまま、自分の長いその髪を指で絡めながら聞いた。
 「そんなつもりはありませんよ」
食器を重ね終えて、私は空いた手で適当にあった布巾を畳みながら答えた。自分で言うのもなんだが、私は確かに姫の言う通り自分が忙しいと言う自覚はある。だけど、せめて食事位ゆっくりしたいと言う、今の自分の多忙な状況を悲観するような気持ちは抱いたことは無かった。何故なら、永遠亭の皆の為に私は望んで自分から診療や製薬を行っているのだから。姫や優曇華、てゐそして因旛達がいるのに、そんな弱音を吐く権利など私には無い。
姫は私の言葉に少し何かを考える仕草を見せ、それから何かを思い付いたのだろう。
 「冗談よ。じゃあ、優曇華の料理が美味し過ぎるから味わって食べたいとか?」
頬杖を止めて、相変わらず単調な質問を投げかけて来た。
私はと言うと、そんな姫の子供の様な簡単な質問に真面目に答えるつもりは無かったので
 「ええ、そうですよ〜」
欠伸をしながら適当に答えた。
 「ほう…」
私の言葉を聞いた途端、姫がいいことを聞いたぞと言わんばかりに、ニヤリとした笑みを顔に浮かべて私を見つめた。
 「…」
私はと言うと、その姫の様子を見てつい適当に言ってしまった自分に対して狼狽する。しまった…。つい適当なことを…。
 「聞いた優曇華?」
姫は、椅子に座ったままうとうとしていた優曇華に、テーブルの上に身を載せながら言った。
 「なっ!!止めて下さいって姫様!!」
私は顔を赤くしながら、姫を引き留めようとして慌てて言った。
しかし、その必死な私の大声で優曇華は我に帰ってしまった。
 「ふえ…?何がですか?」
開いた瞳で、近くに来ていた姫を見ながら言った。姫はそんな優曇華をニコニコと見た目は無邪気に笑った表情の顔で見つめながら
 「貴女は幸せねえ…実は永琳がね」
 「だ、だめーーー!!!」
私はついに羞恥に耐え切れず、椅子から跳ね上がるように立ち上がると、慌てて姫を優曇華から引き離す。優曇華は事の経緯が全く飲み込めていないのか、私と姫の様子を見て訳が分からないと言いたげに、首を傾けた。
 「あら…いいじゃない。もしかしたら優曇華が喜ぶわよ?」
顔の笑みを、今度はニヤニヤに変えながら姫は言う。
 「喜ぶ…?」
優曇華がそれを聞いて聞き返した。お願いだからもう勘弁して…。
 「ええそうよ!!聞きたい?!」
姫が私の気持ちなど全く無視しながら、優曇華の問いに歓喜して答えた。
 「だから…!!」
私がその口を押さえようとするも、その度に顔を動かして私の手から逃れる姫。私はと言うと姫の行動にたじたじになりながら、いよいよ本格的に焦りを覚え始めていた。
 「聞きたい、です…」
しかし私の願いとは裏腹に優曇華は真剣な顔で頷き、言った。その言葉に私は凍り付く。優曇華まで何を血迷ったことを…。私は目を丸くして優曇華を見つめた。すると姫は、私が凍り付き腕の掴む力が弱まった隙に、スルリと腕の中から逃れ椅子に座っている優曇華のすぐ横まで早足で歩み寄る。
 「永琳が貴女の料理が物凄く美味しいんだって」
微笑みながら単刀直入に告げた。
 「えっ?!師匠が?!」
 「姫…」
優曇華は姫の言葉に顔を赤くして驚き、私も優曇華と同じように顔を赤くする。
 「そうよ…。嬉しい、鈴仙?」
姫は、優曇華のその長く綺麗な髪を撫でながら微笑む。途端に顔が蒸気しそうな程に優曇華は顔を真っ赤に染めて、控え目に私をチラッと見る。その様子を見た私は、何だかとてつもない気恥かしさを感じて優曇華から目を反らした。
 「はい…」
優曇華は顔を真っ赤にしたまま素直に頷く。
 「違うの、あれはね優曇華…!!」
私はまさか優曇華が嬉しいと感じるとは思わず、慌てて弁解しようとする。
 「あら、じゃあ美味しいって言うのは嘘?」
姫が突然強い意志を含んだ瞳で私を見て、静かな声で聞いた。優曇華は何かを恐れるような様子で、私を見ている。
 「あ、その…」
私は姫の言葉と優曇華の様子に、話を続けることが出来なくなって口篭る。こんな経験を最後にしたのは何時だったろう、そう思う位私が姫の言葉に竦むことは久々で、それは実際『久々』では収まらない程過去のことだった。
姫は今度は私へと歩み寄る。そして私の顔を覗き込み聞いた。
 「どうなの?」
それは、凛とした顔だった。嘘で済ませたいならそれでいい、姫の顔を見た私には、そんな姫の意思をはっきりと汲み取ることが出来た。
でも、そんな態度が取れるのは私の本心を姫が知っていたからだろう。私の本心。優曇華が努力してホント少しずつだったけれど、料理の腕を上達させていた昔のこと、そんな優曇華の長い時間と努力を料理にかけていたこと知っていた私には、優曇華の料理を褒めたことを嘘に出来る訳が無かった。いや、私はもう少しで自分の言葉で無いにせよ、嘘にするところだったのだ。
私は、自分は何を慌てていたのだろうと今更ながらに思う。ホントに、これだけ永遠を生きておきながら、私は何をしているんだろう、と。
私の本心。それは優曇華の努力が生み出した料理は美味しいと言うこと。だって、私はずっとこの料理を食べていて一度も飽きたことはないのだから。
 
 「少し、いいですか?」
 「ええ」
私は、姫の横を通り不安そうにしていた優曇華へと歩み寄った。
 「優曇華…」
私は、優曇華の前で立ち止まる。
 「はい」
何て言えばいいだろう…。私は意を決していたが、肝心の優曇華に掛ける言葉を何と言うべきか分からず、この後に及んで戸惑っていた。
優曇華は私を見つめている。そんな優曇華を見て、私はふとそんな着飾った言葉など必要無いのでは、と思う。綺麗な言葉より、気持ちが一番伝わる言葉を言う方がいい。優曇華もそっちを求めている気がした。
私は一呼吸置き思考する、気持ちを伝えるのは、台詞を考えるより簡単だ。
しばらくの沈黙の後、私は優曇華へ微笑みを向けた。そして
 
 「いつも頑張って美味しい料理を作ってくれてありがとう。さっきは騒いでごめんなさい。やっぱり貴方の料理は最高よ」
ホント何の飾り気も無い言葉だった。感謝の気持ちと褒める言葉を、優曇華へ真っ直ぐに伝えるために。
 「師匠…嬉しいです」
優曇華は私の気持ちを待ち望んでいたのだろう。その証拠に、そう言う優曇華の顔にはあっと言う間に幸せそうな微笑みに彩られた。
 「さっきは素直に認めればよかったわ…。不安だった?」
 「はい。凄く…」
私に髪を撫でられながら、優曇華は頷いた。
 「そう…。でももう、不安にならないでね…優曇華の料理は最高よ」
私がそう言うと、優曇華は再び頷いて
 「はい。師匠も楽しみにしていて下さいね…」
と言って、微笑んだ。その耳が嬉しそうに揺れる。
 「勿論よ。でもその前に、機会を作ってくれた姫様に感謝しなきゃね」
 「あはは…。そうですね」
二人で少しだけ苦笑いをしてから、やがて私が姫へと向き直る。優曇華も同じように椅子から降りて、私の隣に立った。
 「おお?何かしら?」
姫は嬉しそうに私と優曇華を交互に見て、聞いた。
 「まあ、折角だから感謝したいなと…よろしいですか?」
私が苦笑しながら言うと、姫も同じように苦笑した。そしてウンウンと嬉しそうに頷いて
  「じゃあ、喜んで」
そう言って、真面目に身なりを整えてくれた。私と優曇華は笑顔のまま、一回お互いに目を合わせて合図を交わす。そして再び姫の方へと向き直る。姫も微笑んでそれを待っていてくれた。
 「「ありがとうございます」」
私と優曇華は二人で声を合わせて言った。
 「馬鹿従者は撤回ね」
姫は嬉しそうに、冗談交じりに前の発言を撤回してくれた。
 
 
 
 
 「それでは行って来ます」
永琳は書類を脇に抱えながら、私に言った。
 「姫様の分のお昼はテーブルの前にありますから」
鈴仙も永琳に続けて言う。その両手にはしっかりと薬箱と弁当箱が握られていた。
 「ええ、行ってらっしゃい。何時頃に帰ってくるのかしら?」
私はそんな二人の珍しい薬の行商姿を見て、微笑ましそうに笑いながら聞いた。
 「夕方までには間に合うように帰って来ますよ」
永琳がその問いかけに、隣にいた鈴仙を横目でチラッと見てから答えた。鈴仙も少し永琳の様子を見てからコクコクと頷く。私はと言うと、何だかその二人のぎこちない様子を見て、少し笑いが零れてしまった
 「そう、珍しく二人で人里まで行くのだからゆっくりしてもいいのよ?」
私がクスクスと笑いながら言う。すると永琳が私の言葉にゆっくりと首を振って、私を見た。
 「姫様一人にしたままには出来ないわ。それにてゐの事もあるし、今日は早めに永遠亭に戻らないと」
そう永琳が言うと、隣に居た鈴仙が少し縮こまった。何だかんだ言って、やっぱり二人とも気にしているようだ。そりゃ大切な家族なんだから、二人がてゐを気に掛けるのは至極真っ当なこと。だけど、鈴仙には何時までも引きずってないで、そろそろ前向きに向き合って欲しかった。
 「二人とも、てゐを少しは信じてあげなさいよ。てゐはそう遠くに逃げたりはしないわ」
私は鈴仙を、そして次に永琳を順番に見ながら少し強い口調で言った。てゐは必ずここに戻って来る、そう二人に言い聞かせるように。
 「姫様は何故そう言えるんですか?」
鈴仙が、相変わらずの不安げな様子のまま私に聞いた。永琳はそんな鈴仙を黙って見ている。
 「私はてゐを信じているからよっ」
私は胸を張って答えた。鈴仙はそんな私の様子を見て何を思ったのか、眉を伏せて
 「私だっててゐを信じています…」
と拗ねた口調で呟くように言った。
 「なら大丈夫ね。取り合えず、てゐの分の昼食は?」
鈴仙の持つ弁当箱を見ながら、私は聞いた。
 「あ、はいここに…」
鈴仙は慌てて弁当箱を包む風呂敷の中から、一つの弁当箱を取り出して私に対して差し出した。
 「律儀ねえ〜鈴仙は」
私は感心しながら、その弁当箱を受取った。
 「あら、貴方てゐを探すつもりだったの?」
永琳が驚いた様子で聞いた。永琳を見ながら頷く鈴仙。そして私と永琳の方を見ながら、子供のような宛ての無い行動を取ろうとしていた自分を恥じらうように、恥ずかしそうに告白する。
 「ホントは行商の途中探して、渡してあげようと思ったんです…。…お腹を空かしているだろうし。でも間違っていました。てゐがここに帰って来て何も無いのは可哀相ですよね…」
私は、大事そうに鈴仙から受け取った弁当箱を持ちながら、その話を聞いていた。やっぱり鈴仙はいい子だ。あんなに揉めた相手のてゐに、心を痛めてくれた上に、こうして心配して弁当まで作っている。ホント、ずっと私の後に生まれた娘なのに関心させられる。弟子に出来た永琳が羨ましくなるほどに。
 「偉いわね…。永琳も探して上げなさいよ?」
私は、鈴仙の髪を撫でながら永琳を見て言った。
 「ええ。折角の花粉症の薬を売りさばくつもりだったけど、今は利益よりも優曇華の気持ちとてゐを優先するわ」
永琳も鈴仙の気持ちをしっかりと受け取ったのだろう、そう言う永琳の瞳には強い意志を感じさせるモノがあった。私は頷く。
 「ありがとうございます!!」
ずっと不安だったのだろう。永琳の言葉を聞いた鈴仙は顔を輝かせながら、私と永琳を見て言った。私は微笑みながら
 「ええ、見つけた時はこっちに帰るように言ってね」
そう言って、綺麗な長い髪から手を離す。鈴仙は嬉しそうに頷く。
 「じゃあ、頑張って見つけるわよ」
 「はいっ!!」
鈴仙は永琳の言葉に、気合い十分とばかりに私に向けた笑顔のまま答えた。その姿は私が見ていて、微笑みが自然と浮かんでくる程、微笑ましい師弟と言う関係の二人の姿だった。
 「頑張ってね、二人とも」
私は笑顔のまま手を小さく振って、言う。
 「では行って来ますね、姫」
落ち着いた微笑みのまま、言う永琳。
 「行って来ます姫様」
鈴仙もそれに続けて、笑顔で言った。
そして、背を向けて軽い足取りで歩き始めた二人を私は見送る。そしてそのまま玄関を出て門へと向かって、私は
 「お土産お願いね〜」
と言って二人を送り出した。二人は竹林へと出た後も、私がそう言うと手を振って答えてくれた。
 
「よし…」
二人が見えなくなった後、私は役目が終わったので、鈴仙から渡されたてゐの弁当を抱えたまま石畳の上を歩いて玄関へと戻ることにした。
 
 
 
 
そして、私は玄関の前で立ち止まり振り返ると庭に向かって言う。
 「もう、出て来ていいわよ」と。
 
私の言葉が聞こえたのか、ガサガサと背の高い花達を掻き分けるようにして、背を低くしてゐが出て来た。
 「鈴仙と、お師匠様はもう居ない…?」
不安そうに、私のことを見ながらてゐは聞いた。
 「ええ、私が上手く話しを合わせといたから」
私がニコリと笑いながら言うと、てゐは心の底から安堵したのだろう。ゆっくりと庭の地べたに座り込み、溜息を吐いた。
そう、全ては私が仕組んだこと。実はてゐはずっとここにいたのだった。てゐが鈴仙と喧嘩して、一方的に出て行ってしまったことを永琳に伝えた後、私は、偶然中庭の隅で隠れるようにうずくまっていたてゐを見つけたのだ。
遠くに行ってしまったのでは?と心配していただけに、その時はホントに安堵して、すぐに皆に教えるつもりだった。
だけど、てゐはそれを嫌がった。まあ、あれだけ鈴仙と揉めた後だったから、てゐの気持ちも無理無いのかも知れないけど。
だから、私はてゐの為に永琳と鈴仙をわざと欺いて、てゐを匿ったのだ。
 
 
 
私はそのままてゐへと歩み寄り、黙って自分の抱えていた弁当箱を差し出した。
 「…?それは?」
てゐが、その差し出された弁当箱を見て聞いた。
 「鈴仙が、貴女に為に作ったお弁当よ」
私は、差し出した弁当箱を持つ手を引っ込めずに言った。
 「鈴仙が…?」
てゐは、その弁当を見ながら再び聞く。私は微笑みながら頷いた。
そして、そのままてゐの前でしゃがみ込み「はい。お腹空いているでしょ?」そう言って、弁当箱を手渡そうとした。だけど
 「そんなのいらないっ!」
てゐはその渡そうとしたお弁当を、私の手から弾く。ゴトッと言う音を立てて虚しく庭の土の上に落ちるお弁当箱。それはしっかりと閉じられていたおかげで高く弾き飛ばされ地面に叩きつけられても、幸い中身は飛び出さなかった。
 「て、てゐ…?」
あのてゐが、鈴仙の作ってくれた物を弾くなんて…。
私はてゐの行動が信じられなくて、目を丸くしながらその落ちたお弁当を見た。
しかし、てゐはそんなことでは収拾が付かなくなっていたらしい。
 「鈴仙なんて大嫌い!!どうせ、こんなお弁当一つで手懐けられると思っているんだ!!大好きだったのに…!!なんでお師匠様なの?!」
顔を真っ赤にして、やり場の無い気持ちを怒りに変え、次々と言葉にして行くてゐ。あんなてゐが今は怒りに身を任せている、私はそんな光景がにわかに信じ難くて、立ち上がり唖然とするしか無かった。
 「鈴仙と師匠なんて、居なくなっちゃえばいいんだ!!!私を無視して、いつも幸せそうにしている二人何か…!!!」
てゐは、立ち上がり大声で毒を吐く。
私はその言葉で我に帰り、てゐを見る。目の前のてゐは、悲壮な表情だった。
――――でも。私はそのてゐの表情を見て痛々しさなどは感じない。
私は大切な家族を、その一員が罵ると言う行為を私は黙って見過ごす程、優しくはないから。
 
…だから
 
 
 
私は、てゐの頬に渾身の平手打ちを浴びせた。
 「きゃっ!!!」
弱弱しいてゐの身体は、それだけで大きく後ろに飛ばされ地面に背中を打ちつける。そして、苦痛に顔を歪めながら私を見た。
 「居なくなればいい…?」
私はてゐの上に馬乗りになって、その胸倉を鷲掴みする。
 「ひっ…」
私は、てゐを散々気に掛けていた二人を侮辱された怒りから、てゐを睨み付けていたらしい。てゐの怯えている様子から、それがありありと分かった。
 「貴女を散々心配してくれていたのよ!!なんでそれが分からないの?!」
胸を鷲掴みにしながら、怒りに身を任せてゐを強く揺すりながら私は大声で言った。揺れるてゐの小さな身体。顔には純粋な恐怖が浮かんでいた。
 「なのに居なくなればいい?!ふざけないで!!!」
私は、その時ばかりは本当に怒り狂っていた。叱る気も、てゐを労わる気持ちも存在しない。心配と、傍観し続けた罪悪感から、研究室で永琳と話した後こっそり抜け出して裏口でてゐを見つけ、何とかしようと協力と手助けを約束した時の善意も、その時は溢れ出る怒りのせいで忘れていた。散々殺しあって来た妹紅に対しても、こんなに怒りをぶつけたことは無かった。
 
私は怒りながら、自分の目頭に熱い物が込み上げて来るのが分かった。
苦しいはずのてゐに一方的に怒りをぶつけていたのだから、同じように悲痛な表情は見せたくはなくて、私はその瞳から溢れるモノを、何とか歯を食いしばって抑え込む。
 
でも、溢れる悲しさは止めようがなくて…
 「本当はお互いを愛しているのに…何で、そんなことを言うの…おかしいわよ…」
悲しさがどうしようも無く大きくなってしまった時、私は怒るのを止め、馬乗りになったまま、涙を流し始めた。
 「姫様…」
てゐも、涙を流していた。自分の罪の重さを知った時、どんな生き物もまず悲しみを覚えると言う。それは蓬莱人にも、兎にも共通して言えることだった。
 「私だって…。永琳が鈴仙と幸せそうにしているのを見て、寂しくなったりするの…。ずっと暮らして来た。一番信頼していた私の従者…。それが違う存在と交わるなんて、本当は嫌なの…。でも、永琳は幸せそうにしていたの…。だから、我慢して来たのに…」
私が涙を瞳から溢れださせ、嗚咽を噛み締めながら言う。頬から落ちた涙は、例外無くてゐの服に滴り落ちて、その服に小さな斑紋を作り出す。
 「ごめんなさい…ごめんなさい姫様…」
てゐは、耐え切れないとばかりに声を挙げて泣き始める。てゐも辛いのは一緒だった。私は同じ悩みを共通する相手がいて、安心した…。だから同じ様に声を挙げて泣き始めた。ああ、情けない。結局こうなってしまったのだから。
 
―――でも少なくとも今は、それが私とてゐを救える唯一の手段だった。
 
 
 
 
 「姫様はお師匠様が大好きなんだね」
私がてゐから離れて落ちていたままの弁当箱を拾い上げ、それに傷と一緒にこびり付いてしまった土を丁寧に拭いていた時、てゐが私の背後から言った。
 「え?!ま、まあ…そうね……」
私は突然のてゐの言葉に、あのやり取りの後だった故か、顔を赤くしながら素直に認める。
 「じゃあ、あの言葉はホントだったんだ」
てゐが私の背中を眺めながら続けた。私は、気恥かしい様子で顔を赤らめていることをてゐに悟られないようにと、背を向けたまま落ち着き払った声で
 「まあ、寂しいと思うのは本当だし…。実際たまに二人の背中を押すようなことをしている自分が馬鹿らしいと思うことも多々あるからね」
そう言って、先刻玄関を出て行った二人を思い浮かべながら弁当箱を拭いていたハンカチをしまい込んだ。この際だから私は、一切の隠し事をせずに、てゐに話してしまおうと思った。普段のてゐだったらこんな気持ちは絶対に起こらなかっただろう。でも、今は違う。
 「私と同じだね…姫様も」
てゐの言う通りだった。私とてゐは同じ境遇。大切な存在のせいで、程度の差はあれど同じ悩みを分かち合っている。昔はあんなに違っていた私達が、今やこんなにも似ていた。
 「そうね…なんだか不思議…。こんなことって、私達が合ってから始めてじゃない?」
 「うん…」
てゐも私と同じ気持ちを味わっていたのだろう。私の問いに、コクリと頷いた。
 「そうよね…。あ…ねえ、一つ聞いていい?」
私は地面に座ったままのてゐの隣に屈んで、丁度真っ直ぐな角度でてゐの顔が見れるようにしながら聞いた。
 「なあに?」
てゐは首を横に向けて私を見ながら聞いた。私はてゐの瞳を見つめるようにしながら言う。
 「まだ時間があるけど、鈴仙は帰って来るわ。その時、貴方はどうするの?」
悪意も何も無い、ただてゐの気持ちが聞きたいだけ。でも私の問いに、てゐは俯いてしまった。私はまたてゐの気に触れることを言ってしまったのでは、と思い慌てる。
 「あ、無理しなくていいわよ…?」
私は自分の無配慮な言葉で、またてゐを嫌な気持ちにさせてしまったのかも知れない。自己嫌悪にも似た感情。心の中では自分を罵った。
 
「謝る…」
てゐが顔を挙げて言った。その顔はてゐの顔には似合わない程に真剣で、私は一瞬でその決意の深さを知ることが出来た。
 「そう…。それで…?」
私はそのお陰で、動揺するのを止め真っ直ぐ向けられるてゐの視線に合わせるように聞いた。
 「鈴仙に言いたいことを言う…」
そのてゐの言葉を聞いて私は頷いた。
 「そう。分かったわ。応援してるから」
そう言って、てゐを軽く抱き締める。
 「うん。…もう逃げないよ」
てゐはそう言って私の腕の中で頷いた。こんな頼りない態勢だったから身は任せては来なかったけれど。出来ればそうしてくれても良かったのに。私はてゐがこんなにも素直に気持ちを打ち明けてくれたのは、最後の機会なのかも知れないのだからこんな屈んだだけの不安定な態勢でも、しっかりと受け止めてあげたかった。
 「じゃあ、私も逃げない。きっちりとケジメを付ける」
私もてゐの決意を聞いて、自分の気持ちをはっきりと永琳に伝えることにした。てゐが決心したから、私も。そんな単純な理由では無い。
同じ悩みを共有した相手が、一歩を踏み出したと言う事実に触れたから。そのてゐの決心が私の背中を押したのだ。
そして今なら臆せず、言えるはず。そしてこの機会を逃したら後が無いようにも思えた。
 「うん。頑張ろう、姫様…」
 「ええ。私も永琳に言いたいこと、言いたかったことを言う」
じゃないと、私にも、永琳にも、てゐにも、そしてそのてゐが愛する鈴仙にすら、満たされた気持ちはあっても、ホントの幸せは来ないと思った。
ギクシャクしたままの気持ちをこれからも私が抱えて、てゐは鈴仙に対して叶わない願いを秘め続ける。
永琳と鈴仙はそんな私達二人と接しながら、やがてお互いにこれ以上深いところへと行かずに避けようの無い別れを迎える。
そんな私達に幸せが訪れるだろうか?いや、そんなはずは無い。残るのは永遠と引きずる後悔の念だけだと思う。
 「うんっ!!私も応援する」
てゐが微笑みながら、言った。私は微笑み返してその頭を撫でる。
だから、私は後には引いてはならない。
大切な永遠亭の皆のために、勇気を振り絞って最愛の人の背中を押す。
それがこんなダメな主の、最高の従者に唯一出来ることだった。
 
 
 
「お弁当、食べましょうか?」
てゐから離れて、私は弁当箱を差し出した。
 「うん。えっと…ここじゃダメ…?」
 「なんで?」
私が不思議そうに聞くと、てゐは恥ずかしそうに目を反らして
 「お腹が空いて歩けない…」
う〜と唸りながら私を見上げて言う。
 「何を言ってるのよ。もう…そんなので大丈夫?」
私はてゐの言葉を聞いておかしそうにクスクス笑う。ホントに永遠亭の皆は可愛くて、それでいて愛らしい。ここに来て良かったと、一番思えるのはこんな大好きな瞬間だ。弄る訳では無く、相手が自然と有りのままを晒してくれる。そんな瞬間に、一番幸福を味わえるから。
 「だ、大丈夫だって!!!早く食べたいの!!」
てゐが顔をさらに真っ赤にして抗議するけれど、私は服の裾で相変わらず口元を隠してクスクス笑いながら
 「ダメ。ちゃんと居間で食べましょう」
ごねる子供を諭すように言う。
 「…何だか姫らしく無いよ」
てゐはそんな私の事を、有り得ないと言いたげに見ながら言う。だけど、今の私にはそんな失礼なてゐのジェスチャーと言葉も気にならなかった。
私は裾で笑いを隠すのを止めて、顔に笑みを湛えたままてゐを見た。
 「だって、私はここの主だもの」
その言葉にてゐは、何を今更…、とばかりに肩を竦める。
かくして、私達二人の永琳と鈴仙を幸せにする意思は固まったのだった。
 
 

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