多分、始めの私は理性が無かったのだと思う。
 
 お互いに正面から向き合い浴衣を解く為に雛の、細い腰に両手を回した時、私と雛は自然と見つめ合う形になった。雛の僅かな吐息すら鼻先に感じる程の、近い距離。雛の瞳には、行燈の柔らかいオレンジ色の明かりが写り込んでいて、その澄み渡った輝きと美しさに思わず吸い込まれそうだった。
 
「雛……」
 
 私は微かに名前を呼ぶ。薄れかけた理性を呼び戻さないと、帯を解くと言う本来の目的も忘れそうだったから。私はそっと軽く浴衣の帯に手を添える。優しく、思いやってあげるつもり。けれど気持ちとは裏腹に、その時の私には見つめ合う雛の瞳がほんの僅かだけ揺れ動いたように見えた。普段なら気に掛けないような些細な反応だけれど、今の私の心情を揺さぶるのには十分だった。嫌なのではないか、と思えてたちまち気が引けてしまう。私は一度見つめ合う視線を離すと雛の胸元に目線を落とした。
 
「にとり、緊張してるの……?
 
 雛のまだ閉じられていた胸元を何となく眺め、内心で呟いた。違うよ雛、手を出せないなって思ったの。こんな綺麗で穢れの無い存在を、私は今から自分で満たしてしまうのだから。躊躇もするし、自分から申し出たことに後ろめたさを覚えるのは当然のことだ。思考していると、雛の声が聞こえて私は顔を上げる。薄くだけど、私に対して雛は微笑み掛けていた。優しくて、可愛い。私にだけ見せてくれている笑顔だ。きっと私の様子を見かねてのことなのだろう。自分のことを心配させまいとする、雛の気持ちが良く分かる。
 
だが、雛の私への思い遣りが、今はどうしようもない程に申し訳無く感じてしまうのだ。自分の不甲斐なさはもちろんのこと、身勝手さにも情けない。自分本位なこともしたくない。既に始めから行き詰まっている。でも、雛なら受け入れてくれると言う確信はあって、現状を打開するには、思い切って開き直るしかないとしか思えなかった。
 
 
 
――――と、雛の手が私の頬を包むようにして両方に添えられた。私にとって、雛の行動は意外であり、また助け舟でもあった。雛はもっと純粋に私の背中を押す為にしてくれたのだろうけど。同時に、雛が改めて私との行為を了承した証しなのかな。
 
 気付かれないよう、ちょっとだけ溜息を吐いた。また雛に背中を押されちゃった。これじゃ、どっちがリードするのだか分からないや。自分の頭を叩きたい気分だったが当然出来るはずも無い。苦笑いも内心だけに抑えた。次に改めて目線を合わせると、雛が望んでいるか分からなかったが、雛の意思に答える為に添えていただけの腰の帯から手を離した。代わりに私は、腕を背中に回すと雛の身体を自分の元に引き寄せる。
 
私達の視線が交錯して鼓動が早まり、血流が脳まで昇って来る。私は目を閉じた。溢れ出しそうな「好き」の感情を凝縮し纏めるために。
 
やがて私は、雛の唇に自分の唇を静かに重ね抱き締めることで素朴に相手へ伝えた。
 
(あったかい……)
 
 唇を重ねた途端、心が鎮まり相手の唇の感触以外に感じなくなるのだから不思議だ。私の唇に密着している柔らかな雛の唇の甘さに蕩けると言うより、ただ幸せな感じがした。私以外のやつが雛とキスをしたらどうなるのだろう?私が接吻で心を鎮められるのは雛だからなのかな。どっちにせよ雛は誰にも渡さないし、私は雛以外の誰ともくっ付く気はないけれど。
 
(だめだって、自分……)
 
折角のキスの時に私は何を考えているのだろう。これから雛を抱くと言うのに頭に浮かぶのは、陳腐で、どうでも良いことばかりだった。しかし、お互いを好きで求め合っているのは間違いない。私も雛も、なかなか重ねた唇を離そうとしなかった。
 
「にとりは、キスが好きなのね」
 
 唇を離した時、雛はそんなことを囁いた。
 
「どうしてそう思うの、雛は」
 
 耳元で囁かれた訳でもないのに、雛の言葉は何だかすごく擽ったい。心の奥を何かで焦らされるようなむず痒さだ。そわそわと私は雛を抱いたまま、落ち着きが無く動いてしまう。折角心を鎮めることが出来たのに、このままでは再び気持ちが盛り上がりそうだ。
 
「ん、なかなか離そうとしないからかな?私は構わないけど」
 
 雛は私の変化に気が付いていないのか、私の肩に頭を載せるとそのまま身を預けた。気が付いていたなら、もう何をしても良いと言うことになるのかな。私は雛を大好きだから、雛の定まった意思をこの耳で聞くまでは手を出さないつもりだ。今でも十分満足だし。雛は温かく、幸せな重みを感じる身体を抱き締めるのが心地よい位。だからすごく可愛らしくて、このままぎゅっとしたいとしていれば、今宵はもう抱かなくてもいいとさえ思えた。
 
「いいじゃない、雛。その代わり、私は雛が求めれば何でもするよ?
 
 お返しにと、私は雛の耳元で囁いた。他意は無いと自分に言い聞かせているつもり。座ったまま私は雛の身体を抱き締めているから問い掛けるのは簡単だった。とは言っても、目の前にある雛の髪から漂うシャンプーの良い香りは、私の鼻腔を満たしていて、確かに多少その気は無い訳ではなかった。だからこそ、自分に言い聞かせているのだけど。
 
「じゃあ、このまま私を抱き締めて眠ろうと言われたら?
 
「別に大丈夫だよ」
 
 正確には我慢出来るよ、だ。始めは理性が利かない程に冷静じゃなかったけど、雛の優しさに触れてしまった途端、逆に失せてしまった。いや、失せたと言うより落ち着いたのかな。やっと手が届いた時に目標を失い、何故か訳も無く我に返ってしまう子供のように。いずれにせよ雛に自分から聞いておきながら拒むようなことは出来なかった。私は、耳元で平然と答える。
 
「じゃあ、私を包み込んで。眠りに落ちた後も抱き締めて」
 
 雛は肩から顔を離して私を見上げる。私の内面に問い掛けるような口調だ。つまり真摯な願い。いつも雛は、どんな時も私を温かい優しさで受け入れてくれた。そんな雛が私に求めることなど、はっきり言って珍しい。当たり前のことを真摯に言うのだ。私に抱かせてくれと頼まれた時、雛が受け入れたことには、いつも私を受け止めたまには私に包み込まれたかったと言う願いがあったからなのかも知れない。だから私の為にとか言う思いやりは無く、ただ純粋に私を求めていた……。やはり抱いた方が良かったかも。
 
 けれど、今となって雛は違ったやり方で求めているし、私が雛を思いやるならば雛の言ったことに答える意外に術は無いだろう。私は決心も固めると、小さく口元だけを笑みに歪めて
 
「分かった。じゃあ、雛を抱くのは次の機会にするよ。その時は、好きなだけ求めていいからね。私も答えるからさ」
 
 雛の髪を撫でて、私はおでこに小さく唇を付けた。軽いスキンシップだ。食べたいほどに繊細な雛の肌は、まだ服の生地越しに触れ合っただけで直接には触れていなかった。今は焦ることではない。そして今が雛と身体を繋ぎ合う時でも無い。雛が求めてくれていることが分かっているから、私は答え大好きな人を愛せばいい。お互いの身体を結ぶのは、全ての道筋を辿った後だ。
 
「……うん、ありがとう。大好きよ、にとり」
 
 雛は朗らかに微笑むと、私の服の生地を握り締める。イケないな、まるで胸が締め付けられるみたい。大好きと言われたことの私は嬉しさなのかな。
 
「私も大好きだよ、雛。今日は一緒に寝よう」
 
 ―――いつも一緒に寝ているけど。でも、言うことで私は雛と一緒に居られる充実感を覚えることが出来る。その中に寂しさは無い。朝が来て、夜までまた別々に別れなければならない現実にも嫌悪感は無いのだ。だって、私と雛にも別々の生活はある。河童と厄神。一緒にはなれないと思っていた私達が一緒になっていることだけでも十分幸せなことで、さらなる関係は求めなることはしないのだ。
 
 一緒に居続けたい願いはあれど。
 
 
 
「おやすみ、雛」
 
「おやすみなさい、にとり」
 
 
 
 
 この生活がこれからも続きますように。
 
 
 
 エンジニアの私が一番願っているのは、そんな他愛も無い私達の幸せだった。
 
 
 
 
 
 
 

河童と厄神    ―――完―――

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