儚い白き約束

    思えば、今日は咲夜の日だった。


 

 
 
 
 
   雪の降る朝だった。
 私が珍しく一人で目が覚めた時、寝室には風の音すらない静かな朝だった。首を動かすと布団の生地が擦れてその音だけが唯一、寝室内に響き渡る。眠っているのには最適の静けさだった。なぜ目が覚めたのだろうと思い、私は首を動かして室内を見渡すと、理由はすぐに分かった。カーテンに遮られているとは言え、室内は十分な明るさを持っていたのだ。瞼を閉じても少し薄暗い程度の明るさは閉じられた瞼越しでも分かり、ほのかに闇の中へ混ざり込んでいた。朝になれば生き物は目が覚める、当然のことだけど、寝起きの私にはその明るさが少し鬱陶しかった。しかし一方で睡魔はゆっくり私を眠りに引き込もうとする。それに瞼越しの光が合わさり、身体が暖かい湯船の中を浮かぶような感覚が返って心地良さを誘った。誘われるまま温かさに身を任せていたら、闇の中で光が瞬いた気がして、目を閉じた瞼の裏側は真っ暗になる。やがては私を包む布団にも現実感が無くなった。
 
 死ぬ時はこんな風なのかしら。意識が遠ざかって行く中で、ぼんやりと思い浮かんだ。眠る前にどうして哲学的なことを思ったのか分からないけれど、私にとって死とは程遠いことであって、決して無縁では無いのだとも考えた。周りにも、四季と言う形で生と死は満ち溢れているし、私にだっていつかは最後もやって来る。だから私は、自分の中で突発的に浮かんだ考えをこれと言った違和感も無く、当たり前のように受け入れていた。
 出来るなら、良い最後を迎えたい。最愛の人が傍に寄り添ってくれ、皆に温かく見守られて。私は、いつか自分にも訪れるだろう最後を瞑想した。悪魔の私に物語のような最後が与えられるとは思えなかったけれど。
 
「……?
 
 ふと喉の渇きを覚えた。
 とは言っても、眠気に覆われていたせいか分からなくて、最初に感じたのは喉の違和感だった。つい私は意識をしてしまい、違和感は眠気に覆われた私の中で大きくなり始め、やがては私に水が欲しいと言う欲求を覚えさせた。息をすると口の中がパサパサして、喉の奥はまるで何かを塗りたくられたみたいに乾燥している。試しに大きく息をしたらと、喉がしゃくれて危うく咽返りそうになり、私がまともに出来たのは気持ち悪さに寝返りを打つことだけだった。
 
吸血衝動なのかと思った。朝から血が欲しいなんて、節操のない話だけれど。
血は、いつもスキマ妖怪から支給された人間から得ている。欲求も満たすことが出来ていた。衝動的に欲しくなることなど最近は無かった。私は浮かんだ自分の考えを、受け入れていない。私は喉の渇きを無視して寝続けるか、起きるかの二つの選択をしていた。しかしこれ程、喉が渇くなんて久々で、そう言えば最近は冬場だけに紅茶以外の水分を摂っていなかったことを思い出した。紅茶だけは毎日欠かさず嗜んでいたのは、私が飲みたくなる唯一の水分で、冬場に身体を暖める方法の一つだから。アルコールでは意味が無いし、結果として私はまともな「水分」を口にしていないのだ。故に、ようやく身体が私に言うようになったのかも知れない。まともな水分を採れ、と。事実私は、今の渇きに耐えられそうに無かった。
 
私は瞼を開けてベッドの上で身を起こした。柔らかい枕の上に肘を付いて、身を支える。ベッドの脇に添え付けられた小さな机に手を差し伸べると、上に置かれた手の平程のベルの柄を指先で摘んだ。流石にメイドの一人や二人は起きているだろう。その考えに同調するように室内の光を受けて、ベルの鐘が鈍く金色に光る。
 
 私がゆっくりとベルを左右に揺すればリーンリーンと、小さくも澄んだ音色が流れた。目覚ましのような耳に響く音は寝起きには丁度良いけど、これは返って眠気を呼び覚ましそうな音で、空気が渇いているから余計に良い物だった。例えるなら季節外れだけど、風鈴のように伸びのある音色はしばらくの間流れ、やがては空気を震わせる微かな音となり、最後は低い音に変わると遂に途絶えた。音色が消えれば再び静寂が訪れ、音を聞いていただけにそれを強く感じる。
 
「耳鳴りもしないのね……。本当に、静かな朝だわ」
 
 まるで、自分以外に誰も居なくなってしまったみたいだ。
 
けれど全てが静まり返った訳でも無い。時たま、森の方から小鳥の囀りが耳に届き、湖の湖畔から水面で魚が跳ねる音も聞こえる。私はそれらを聞き、外の様子はどうなっているのかが気になって、身体を窓際へと向けた。身体を捩ったことで身に纏っていたパジャマが緩み、外気に肌が晒されたことで私は寒さを知った。私は指先で生地を摘み、襟を整えると首筋を隠した。窓際では、カーテンの隙間から光が細長く差し込み、床を白く照らしている。それは日差しのような白さでは無く、温かみの無い言わば純白で、光を目にした私は空に朝日が浮かんでいないのだと直感した。
 
 不思議な物だ。
 
 昨夜は、あのカーテンの隙間から月が見えていた。けど目を閉じて、朝になればもう月は見えないのだ。眠りに落ちた後は、一瞬に感じる。月は私に吸血鬼を唯一照らす光を与えてくれるから、私はカーテンの隙間を敢えて毎晩開けていた。月が私を見ていて、優しい光で照らしてくれるようにと。けど、眠るまでに月は見ることのできる時間は僅かだ。長い間ずっと寄り添っていて欲しいのに、私の都合など関係無しに月は何も残さずに消え去ってしまう。せめて柔らかく頬を照らす、あの光だけでも残したいと願っても記憶の映像にしか残らなかった。
 別ればかりで嫌になりそうだ。自分の生き方が疎ましいとは思わなくても、寄り添う者の少なさはどうしようも無かった。今や傍に居てくれる者達は指折り数える位しかいない。けれど皆大事な存在で、居てくれるだけで幸せを感じることだってある。しかし、例え寄り添う者が居ても私は長く生き続けてしまうが故に相手は一方的に去ってしまう。生きて来た中での哀しみも多く、いつかは積み重ねた悲哀と思い出意外に何も残らなくなるのかしら。その時に、私は曲げられなかった吸血鬼としての自分の孤独と運命を恨み、最後を迎えるのかも知れない。
 
 私は俯いていた頭を上げる。喉の渇きも思索のせいで忘れかけていた。
 
 どうして自分の人生など観ているのかしら。今日は色んなことが思い浮かぶ。死とか、分かれとか。そんな物はこの長い人生の中で、いくらでも経験してきたのに。まあ、慣れることなど無いから思い浮かぶ度に畏れるのだろうけど。哀しみに打ちひしがれたことも、背負った重石から、逃れることも許されなかった。
 
けれど私は今も生き続けている。しぶとく、周りに残ってくれた貴重な親友や心許した相手に縋り、求めて。
 
「……そうだ。今日はあの子の」
 
 呟き、用事を思い出したらドアがノックされる音に私は我に返った。視線を寝室のドアへと向ける。メイドは起きていたらしい。まあ、当たり前のことか。ついでに申し付けることもあるのだし、思いだしがてら好都合だった。
 
「入りなさい」
 
 私が答え、一拍置いてから音も無くドアが引き開けられると、廊下には一人のメイドが立っていた。彼女は部屋に一歩だけ踏み込み、私が起きている姿を目にすると、目が合い慌てて頭を下げる。挨拶と部屋に入る順番が間違っている。私はそんなメイドを見て相変わらず抜けていると思わずにはいられなかった。
 
「おはようございます」
「早速だけど、紅茶を用意して頂戴。ついでに水もお願い。……今日は用事があるから、少し外に出るわ。だから紅茶は熱いのをお願いね」
 
 彼女が挨拶し終えると、私は要件を口にする。簡潔に伝えてはいるつもりだったけど、私はメイドから視線を離していて、最早彼女の姿を横目にすら捉えていなかった。心がここに無いのは、自分でも良く気が付いている。私自身、一体自分が何処を見ているのかなど分かりもしないのだ。
 
「はい。……用事、ですか。ご用意致す物はありますか?
 
 随分と気が回るようになったものだ。まさか古株であったとしても、妖精メイドからこんな質問をされるとは思いもしなかった。なるべく私は、表面に滲みだしそうな驚きの気持ちを押さえ込み、平静を装いつつ首を傾げる。
 
「そうね……。防寒着でも用意してもらいましょうか」
「分かりました。お出掛する時には用意しますので、その時はお申し付け下さい」
「ええ、頼んだわよ」
 
 メイドは一歩下がり、廊下へと出たのか扉を閉じる。今度は先程とは違って少しだけ音がした後、室内に廊下の冷たい空気が流れ込んで来た。私は妙な気分だった。最初の方は相変わらずだったけど、無能だったはずの妖精メイドに要件を伝えるやり取りはスムーズに済んだ上に気まで回されたのだ。私を含めた紅魔館が変わり始めているのか、それともただ単に今日のことは偶然なのかしら。どちらなのか決めかねて、私は美鈴の変わらないそこそこの仕事ぶりやパチェの引き籠り加減を絡み合わせ、考えてみた。すると、私は後者なのではと言う結論に辿り着いてしまう。当然のことか。幻想郷に引っ越して来てから今まで、紅魔館を変えるような大きな進化や変化は起こり得なかったのだ。せいぜいあるのは、庭の景色が変わるとかフランが活発になるか位のモノ。
 しかし、変わらないが故に思い出や習慣は残り続けている。何百年時を経ようが、変化が無ければそこにあるモノは求められ形を残し続ける。今日は、私の中でずっと大切だと想い続けていた日だ。これも私が毎年のようにしている習慣、言わば『大事な日』なのだ。
 
「そう、今日は大事な日なのよね」
 
 呟きを受け止めてくれる者はおらず、一人佇んでいると部屋の静謐さが返って虚しさを募らせる。溜息が洩れた。メイドが居なくなってから大して時間は経っていない。だけど飲み物を待つだけの時間はただ長く感じて、私の目線は再び窓際へと移っていた。閉じられたカーテンの向こう側には何があるのか、と。いつも当たり前のように見ていた景色に今は興味を寄せ、一方的に想いを馳せていた。私の想いは我儘で自分勝手なものだから、私の抱くこの気持ちは片思いみたいな物。
 
 どんなに平凡な風景でも構わない。純粋な好奇心に背中を押されていて、先にある景色を見たいと思っているだけ。
 
 私は気持ちを抑えられず、ついには靴も履かず素足のまま床へと降りた。ベッドの周りには長方形の奇麗な赤絨毯が敷かれていて、足裏に伝わったのは厚い羊毛の感覚だった。窓際に向かうと辺りは普通の床板で、絨毯とは違いそこが冷たいのは察しがついたけど、私は構わず窓際へ歩み寄る。
 
 床板を素足で歩けば、冷たさは無く拍子抜けしてしまう。暖炉の熱がまだ残っているのかしら。私は窓の前に立つとカーキ色のカーテンを指先で摘み、引き開けた。
 
「あら……」
 
しかし窓ガラスは蒸気で白く曇り、外の景色を見ることは叶わない。もちろんこの程度で諦める気はせず、むしろ日差しの出ていない時に窓を開けることが出来ると言うことに、私は若干の高揚感と楽しさを見出し始めていた。随分と沢山の感情を持っていたけど、それらは私の背中を押すと言うことでは皆同じ。
今の私は情景への憧れに胸が一杯だ。窓枠に手を掛けて、観音開きの窓を手の平で押せば、硝子が振動する音と共に、窓が開け放たれた。
 
すると、部屋の中へ冷たい空気が流れ込む。眩しい光は目を覆い、視界が一瞬で真っ白になった。
 
「雪、か……」
 
 視界を覆った光が消えると、私の目に一面の見渡す限りの銀世界と、しんしん降り続く雪が映り込んだ。太陽が出ていなくても、これほどの雪が互いに光を反射し合っていれば、確かに景色は明るくなるかも知れない。しかし、こんな大事な日に限って雪とは皮肉な物で、厚底のブーツを用意させなかったことが少し悔やまれた。後で言っておこう。
私は窓際に手を掛けて、一面に広がる光景を黙って眺めた。流れ込む寒気は、布団によって暖められていた身体を冷やしてしまうけれど、すっかり魅入った私が身体を気にすることはなかった。
 
「思えばあの日も、こんな風に雪が降っていたわね」
 
 私はスコールに阻まれ、シルエットすら良く見えない山並みに向かって目を凝らした。風は無く、故に雪は舞い上がらないけど量が多く、まるで煙幕のように視界を阻んでしまう。それでも尚眺めていたのは、近くの湖とか森を眺めても、雪化粧をしただけで何ら変わりが無いように思えて、ならばいつも見ている景色より見えない物を見ようとすることの方が価値のあることと考えたからだった。これから行くのも、そんな風景のように不確かで、けれど想いの強い価値のあること。
 
 山並みを目にしたくても阻まれ見れないことは、「一方的に訪れた別れ」と似ていた。故に私は二つを重ね合わせて、孤独を覚えつつも、眺めることに魅了されている。気持ちも静かになって、景色へ馳せた想いは違うことへ向き始めた気がした。
 
「―――今日も行くわよ、咲夜……」
 
 私は、風景を眺めながら私が愛した一人の従者の名前を口にする。風が吹き、スコールが晴れて、その時だけ私は眺めていた山並みをはっきりと目にした。
 
 
 
 
 
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